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嵯峨大念佛

伝統を守る、伝統を受け継ぐ。

京都市右京区嵯峨の釈迦堂の名で親しまれている、古刹清凉寺の境内で執り行われる嵯峨大念佛狂言。国の重要無形民俗文化財に指定されている民俗芸能です。その歴史は古く、言い伝えでは鎌倉時代に融通念佛をひろめた円覚上人道御の創始とされています。京都嵐山ライオンズクラブでは舞台新装に伴なう舞台幕の寄贈や公演時の協賛支援を行い、伝統文化への継承・発展に取り組んでいます。

嵯峨大念佛狂言について

京都市の西、嵯峨の釈迦堂の名で親しまれている古刹・清凉寺の境内で執り行われる「嵯峨大念佛狂言」は、国の重要無形民俗文化財にも指定されている民俗芸能です。すべての役者が面を着け、セリフがなく、身振り手振りだけで芝居が進行する点に大きな特徴があり、現在は約二十番の演目が残されています。 その歴史は古く、言い伝えでは鎌倉時代に融通念仏をひろめた円覚上人導御の創始とされています。資料から見ても、嵯峨大念佛狂言には室町時代(享禄二年[1529年])の銘を持つ面が伝わっており、すでに500年近い歴史を有していると考えられます。この他にも、桃山時代の優秀な面打師であった喜兵衛の刻銘を持つ女面《深井》や、和宮降嫁の際に宮中の女官としてその説得にあたった高野房子の菩提を弔うために奉納された装束など、美術史的にも宗教史的にも価値の高い数々の資料が伝わっています。

嵯峨大念佛狂言の歴史

京都の伝統芸能には、「京の三大念佛狂言」と称せられる狂言があります。壬生寺(宝幢三昧院、壬生地蔵堂、京都市中京区壬生)で行われる壬生大念佛狂言(以下、壬生狂言)、引接寺(千本堂閻魔堂、京都市上京区閻魔前町)の千本ゑんま堂大念佛狂言(以下、ゑんま堂狂言)、そして嵯峨・清凉寺(釈迦堂、京都市右京区嵯峨)の嵯峨大佛狂言(以下、嵯峨狂言)です。いずれも舞台芸能系であり、融通大念佛会にともなった乱行念佛が芸能化したもので、仮面をつけた無言劇です(ゑんま堂狂言は有言)。嵯峨狂言の創始者は円覚十万上人道御です。十万上人は鎌倉時代の中頃には京都市右京区花園の法金剛院を本拠として大念佛会を千本、壬生や嵯峨に広めていきました。したがって、この狂言は単に娯楽のための演劇ではなく大念佛の功徳により、あの世では地獄の責苦をまぬがれ、現世では病気や危難をまぬがれるという、唱導の目的をもちながら、庶民が楽しめるものでありました。また各狂言では念佛講と呼ばれた集団により演じられていました。本来は葬儀と祖霊祭祀にかかわる集団で、無常講、鉦講、泥講などともよばれ、大念佛・六斉念佛や念佛踊りも演じます。いずれも村における相互扶助的な信仰共同体でした。この共同体(講)は聖により鎌倉時代には奈良や京都に普及していきます。大念佛狂言や六斉念佛の広がりも彼らによるものだと考えられています。嵯峨狂言は嵯峨釈迦堂(清凉寺)の大念佛狂会にともなってパントマイムの宗教劇です。清凉寺は大覚寺の西、二尊院の東にある浄土宗の大寺で、五台山と号し、周辺地域の住民からは嵯峨の釈迦堂と呼ばれています。本来は華厳堂の寺院で平安時代前期に創建され、鎌倉時代には浄土信仰の広がりで天台・真言・念佛宗を兼ねた寺となり、室町時代には融通念佛の道場に発展しました。狂言は鎌倉時代末に念仏者の活動による大念佛会を背景に、嵯峨の地に根付いたと考えられています。当時、釈迦堂に集まる人々は念佛を合唱し、一体感を感じるとともに、念佛の功徳を融通しあったものと思われます。この結縁者の「ナンマイダブツ」の大合唱のなかで演じられる狂言は、台詞があっても聞こえないために、無言になったと考えられ、決してフランス流のパントマイムの真似ではなく、またこの大念佛狂言には踊りがあったことも推測でき、大念佛会には詠唱と踊りと狂言で構成されていたとみられます。嵯峨狂言の持ち味は土の匂いがただよう、おおらかな味わいがする土着性です。大念佛狂言そのものがもつ魅力は、演者が着ける面と一定の約束ごとでの動きによる形式美のすばらしさといえます。そのことは念佛芸能がいかに多種多様な日本の芸能の母胎になっていったかということにも繋がります。念佛は発祥当時から日本では音楽・舞踊・演劇といった芸能的色彩が濃い宗教儀礼でした。その後、変還を経て中世以降の多くの芸能を生み、日本の民俗芸能の源流ともなりました。そのことは念佛が民衆の奥深くに在る祖霊観念と結びつき、また浄土教系、禅宗、真言宗などの諸宗の布教が念佛を媒介にしていただいたためであろうとも言われています。演劇的な大念佛狂言は、近世社会になって歓進聖の活動範囲が狭まり、他の世俗的な娯楽が多くなり民衆の関心が薄らいでくると壬生、千本、嵯峨などに痕跡をとどめるだけになりました。